2011年5月7日土曜日

わが亡きあとに洪水来たれ

連休の5月2日から5日までの5日間、震災ボランティアに携わった。

時系列で書いていく。

5月2日。勤務のある妻と東京駅近くのホテルで落ち合うことになった。東京駅周辺は夜になると、街が暗い。眼がおかしいのでは疑った。節電をしているのだった。3日から宮城県石巻市に入るので、早目に就寝した。

5月3日。6時台の東北新幹線で仙台駅に着く。車窓から公園がガレキ置き場が変わっていたり、屋根にブルーシートで覆っている民家が見える。仙台駅も被害を受け、建物全体がシートが覆っている。東北一の大都会だけに商店街の人通りも多い。
東北本線で松島駅に到着する。列車は津波被害を受けた区間を徐行運転した。

松島は観光地として、復活の途中だ。観光船に乗る観光客も多い。瑞巌寺にも津波が押し寄せたが、被害は少ない。観光客の一人になった。
駅前からバスで渡波地区に向かう。津波がくるとは思っていなかったとは地域の人は言う。津波が流したものは、田んぼの自動車、漁網などさまざま。藁が水分を含んで、道路を覆っている。道路ををクルマが通れるように、スコップや熊手を使ってゴミ袋に入れる作業。リヤカーが活躍した。パンクをしていたが。地区の人に感謝をされた。うれしかった。地盤沈下で大潮になると、水が上がってくる。田んぼで米作ができるのは何時の日だろう。

5月4日。避難所になっている石巻中学校から、山下中学校の体育館に引越しされる被災者の荷物の搬入などのお手伝い。9日から授業が始まる石巻中学校には、別の中学校が移転。被災者は内心はもう引越しはゴメンと推量する。でも、子どものためなら仕方ないと避難所移転を受け入れたのだろう。体育館には97ブースに段ボールで仕切られていた。独居者は小さいスペース。間口は両手を広げたくらい、奥行きは両手プラス10cmくらい。すぐに横たわる人もいた。重たい荷物、軽い荷物、小さい荷物。そのさまざまに生活の重みがある。

別のグループは過酷な作業をしていた。津波被害で冷凍機能を損失した魚倉庫の処理作業。1カ月間、冷凍庫の扉は開けられなかった。内部を乾燥させるためだそうだ。開けた。魚の腐敗臭。ヘドロの臭い。アンモニア臭。眼がしみる。防塵マスクもしているが、鼻が曲がりそうな臭い。内部の清掃。昼食後、気分が悪くなり嘔吐した人も出た。臭いは衣服に染み付く。ホテルで夜食を食べていると、ホテルの従業員が衣服をクリーニングさせてもらうので、着替えをと頼まれたという、笑うに笑えない話も。

日和山公園から市内を遠望する。重機の音が聞こえている。石ノ森萬画館が見える。UFOが降り立ったような建物。昨日
妻が周辺のガラスの破片を片付けていた所だ。5日の子どもの日に、1日限定のオープンに間に合わせるための作業だった。
八重桜が咲いている。寒い季節にサクラは悲しく咲いている。

5月5日。12時までの活動。石巻中央商店街の陶器店での活動。創業102年を迎えた今年に「100年記念のお祝い」を考えていた矢先の地震・津波で、店内の陶器は割れたり、汚れたりした。床はすでにボランティアによって洗われていた。お皿、花瓶、茶碗などを泥を落とす。感謝されたが、女主人にかけるコトバが見つからなかった。跡継ぎは多職に就いている。店は閉店しかないかと肩を落とす。それ以上聴いていると、もっと暗い現実を眼にするとあきらめた。被災者にはその数だけの悲しみがある。

石巻市を後にして、松島駅経由で仙台駅についた。日常がそこにはあった。混雑する東北新幹線。東京駅は雑踏の中にたっていた。17時間が経った。東日本大震災のボランティアはこれからが勝負だ。人員不足が人災を最大化しないように。

タイトルは「あとは野となれ山となれ」の意味。日本という國が、誰も責任を取らず、国民にツケを払わせてきたシステムだということを知らせてくれた。

「子どもを守るため、自分を捨てて頑張り過ぎることのないよう」(森茂起甲南大教授)教員にも心のケアが求められる。