2011年4月23日土曜日

なぜすぐに裏山に避難しなかったのか

宮城県石巻市立大川小学校の惨事についての報道。(毎日新聞4月19日付の朝刊)

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避難所なっている大川小学校への津波到達を石巻市は想定していなかった。

校長の証言。 「堤防を越える津波が来たらもたないので、山に避難場所をつくろうと職員で話はしていた。裏山は泥炭地でつるつる足が滑るので、階段をつくれるといいなと話していたが、そのまま震災になった」

校舎に残る三つの時計は、いずれも3時37分を指し止まっている。
地震から津波到達まで、恐らく40~50分あった

9日の保護者への説明会。

校庭で点呼を取るなどした対応に「なんですぐに逃げろって言わなかったのか」と非難の声。

先生を擁護する声。
108人誰も欠けないように点呼し、先生はよくやってくれた。誰が悪いと思ったことはない」

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石巻市立大川小学校のホームページを厳粛な気持ちで見る。あまりにも美しく、楽しい学び舎であっただけに痛々しさは募る。

大川小学校の職員構成は、校長、教頭、教諭9名と事務職員(主事)1名、用務員1名。
9名が死亡。行方不明の方が1名。助かった教諭は1名だけ。
教職員と児童の心の傷は深いだろう。

保護者などから感謝されるととてもうれしい。それが教師などの生きがいになる。しかし、非難の対象になると、とても落ち込む。

危機対応能力を常に磨くことがこれから特に求められる。
1.現場は前もって明確な役割分担を決めておく。マニュアルは、その時に活きるものでなければならない。
2.現場臨機応変対応・判断する。現場外の上司の判断を求めていては、判断の遅れにつな  がる。
3.逃げ道(退路)の確認。

しかし、自然の猛威の前には人間はなんと弱い存在か。
津波てんでんこ」しか、生きる術はないのか。
大阪市も他人事ではない。敦賀の原発銀座から80㎞しか離れていない。津波が来たら、防潮堤も役に立たないかもしれない。避難所になる学校の玄関の鍵が掛かっていたら、避難所の役目を果たさない。東日本大震災から教訓をくみ取れるか。

2011年4月10日日曜日

先生たちの心のケア

東日本大震災と福島原発荷重事故。
あまりにも酷い事態に私の心も混乱している。

2度目の退職で、私の生活も変化している。
ボランティアや大学の聴講生として、1週間の何日間は潰れる。健康保険も同居人の被扶養者になった。年金生活者として、収入を見ながら支出をしている。午前中は3紙の新聞切り抜きをして、ファイルに整理する。
変わらないのは、眼科、神経科、耳鼻咽喉科に通院することだ。教員の労働時間調査は続いている。親の介護も気になる。

阪神淡路大震災のささやかな経験から、「先を読む」ことを心掛けている。
まず、学校の先生方の心のケアが気になっている。自ら被災しながらも、被災者や子どもたちに寄り添い、疲れていく先生たちを心配する。「先生たちの心のケアチーム」が、いま求められていると思う。休息しないと、疲労は解消しない。たまに職場から完全に離れることもいいだろう。

岩手県釜石市の釜石医師会が、心のケアについての文書を避難所になっている病院に掲示している。

被災者の心のケア
主な症状がーイライラする▽不眠▽食欲不振▽ちょっとしたことで驚く▽何もする気になれない▽外出できない▽自分を責めて
しまう

回復のためにーできるだけ休養、睡眠を取る▽気分転換を心がける▽信頼できる人や安心できる人に気持ちを聞いてもらう▽涙が出ることは自然なことで、心の回復につながる

家族らができることーつらかったことが語られたり、泣き出したりすることがあっても、否定せずにそのまま聞いてあげる▽無理に聞き出すのは逆効果▽回復のスピードは個人差があり、本人のペースを見守ってあげる

マスメディアも学校を記事にするようになっている。
行政は、先生たちの精神状態について、先生たちの働き方について支援をすることが求められている。早急に、被災地の教員数を増やすことが大切ではないか。全国的なレベルで退職した教員の活用も考慮してもいいのではと考える。これからが正念場である。

将来の主権者(児童・生徒)を育てる教師は、人間的でなければならない。なぜなら、非人間的な働き方をする教師には、子どもを人間的にすることはできないからだ。

2011年4月9日土曜日

三現主義と宮城県教育委員会の姿勢

宮城県教組中央支部のブログ(現場日記)を見ていて、思ったことを書く。

教育評論家の尾木直樹(尾木ママ)が、金スマで宮城県教委の人事異動を批判した。それに宮城県教育委員会が反論をした。その経過をブログは掲載している。

役人の思考回路とその無責任さを感じる。天災の恐ろしさを私たちは知った。その被害を私たちの英知で最小限にできると信じる。教育現場で奮闘する教職員を励ますのが、県教委の責任のとり方ではないかと思う。批判に頑なな姿勢を見せ、責任を回避する官僚の姿を見る。

突然に「三現主義」なる言葉が浮かんだ。そうだ。県教委の幹部(会社でいえば経営者)頭脳の中に、この言葉が存在するのだろうかと。

ホンダとかトヨタ自動車で実践されているもの。民間職場では常識。経営学の用語である。

「現場」「現物」「現実」の3つを重視し、机上の空論を排して問題解決を図る考え方をいう。実際に現場を観たのか。現実を認識したのか。そのうえで問題を解決したのか。はなはだ疑問に感じる。教職員の働き方を受動的なものから能動的なものに変えて、職場を活性化させる。それには経営者(県教委幹部)に思考を変えねばならない。

「自分の目で確かめ」「自分の耳で聴き」「自分の肌で感じ」「自分で考え」て、判断を下したのであろうか。

自らの面子を捨て、あるべき危機管理を県教委幹部に求めたい。

2011年4月4日月曜日

学校でのセクハラ

「学校セクハラ」という言葉と現実が一致したのは、今から14年前だった。

それは、私が13年間在籍した学校で起きたことだった。赴任の1年前に起きた。男性の体育教師が女生徒にセクハラを働いた。

その教師は、同僚の女教師にセクハラをした前歴があった。だから、女教師あるいは職場の人たちは危惧していた。

校長は毅然たる姿勢を示さなかった。また、その当時、「セクハラ」の及ぼす影響の重大さをあまり認識されていなかった。

どんな影響を与えるか。
被害者の心身に支障を及ぼし、学校という組織に重大な影響を与える問題である。
被害者の名誉や個人の尊厳を傷つける人権侵害である。
職場の人間関係を悪化させ、教育活動を妨げる。
「セクハラ」を起こした学校というダメージを与える。

「天網恢恢疎にして漏らさず」  教育委員会はその教師を転勤させ、問題を収束させようとした。今なら懲戒免職になる行為だ。

職場は、その後遺症を引きずっていた。翌年、私はその学校に転勤してきた。苦情処理を出したが、内示は返らなかった。人間関係が難しい職場と聞いていたからだ。

その体育教師は、校内に派閥を作っていた。その派閥は、女性教師を敵対視していた。誰がセクハラを垂れこんだのかと探索していた。職員室には嫌な雰囲気が漂っていた。
私の所属した学年は、道徳の時間に「セクハラ」についての授業を率先してすることで一致していた。男性教師からは、「子どもが授業する男性教師をどう見るかな」と不安視する声もあった。

加害者は転勤した先でも問題を起こした。そして、その次に転勤した先では、PTAから不安の声が上がる。生徒が被害者にならないかと管理職に相談をしたと聞いている。プール指導で被害を受けないかと保護者は心配した。ついに加害者は退職することになる。彼は人生そのものを自ら破壊した。

今では、セクハラを受けた時は、相手に対して「セクハラ」だと伝える。あるいは管理職や相談機関に相談する。外部の相談機関は、大阪であれば大阪労働局雇用均等室などがある。

セクハラとは、「職場」において行われる、「労働者」の意に反する「性的な言動」に起因するハラスメントだといわれている。1970年代初期に、「Ms」(アメリカの女性雑誌)の編集主幹のグロリア・スタイネムらが作った言葉。1986年、アメリカ合衆国最高裁判所が「セクハラ行為は人権法に違反する性差別である」と判決で認めた。

セクハラとは、
職場において、他の人(職員以外も含む)を不快にさせる性的な言動であり、職場外において、職員が他の職員を不快にさせる性的な言動をいうことになる。受け手や周囲の人が不快と感じれば、すべて「不快な言動」になる。

ある中学校の校長が、ある女性教師に「ゴルフに行かないか」と誘った。しつこく誘ったかはわからない。誘われたことをその女性教師は周囲に相談した。校長からゴルフに誘われたかと女性教師が調査した。誰もいない、一人を除いて。ゴルフに行ったかどうかは不明。

セクハラとパワハラの境界にある行為だと思う。この管理職は、相手を仕事上の対等なパートナーと見ていない、性的な言動の受け止め方についての個人差を認識していない、学校長の優越な地位を不当に利用していると言わざるをえない。

その校長は、組織管理、雇用管理、男女共同参画への理解が足らないリーダーといえる。その責任は、その人物を校長にした教育委員会にもある。

2011年4月3日日曜日

青年教師の退職

ある女性教師が年度末に退職した。2年間の教職経験で職場から去った。

3月23日に管理職に退職を申し出た。そして、管理職は翌日にそのことを全教職員に発表した。

なぜ活躍を期待されていた彼女が退職したのか。類推するしかない。外部からの電話の応対もテキパキとこなしていたのに。
その学年はずっと荒れていた。警察を校内に導入しても、問題生徒の徘徊や暴力の広がりを抑えることはできなかった。対教師暴力も次々に発生した。被害届を出さない。学校教育の範疇でないのに、抱え込んでしまった。だから歯止めがきかない。

彼女は教育系大学を卒業した年に採用された。優れた人材と職場でも期待していた。社会人として、青年教師としても将来が楽しみな人柄であった。彼女のココロの中には、ひょっとすると「学校不信」が募っていたのではないか。「学校不信」は同僚・管理職への不信とイコールではなかったか。

その管理職(校長)は、生活指導あがりの人ではない。ひ弱な感じを抱かせるタイプ。「国語教師」という言葉からイメージされるタイプ。

リーダーシップのタイプでいえば、pm型に属する。Pはパパ(厳格さ)をイメージする。Mはママ(温かさ)を指す。ラージとかスモールがあり、4類型に分かれる。PM型。pM型。Pm型。pm型。

リーダーシップを発揮する地位になってはいけない人物が校長になったのだ。校長は在職2年を終えた。今年度も校長に留まっている。校長の姿勢が職場に与える影響は大きい。この職場は5年前から荒れの状態が続いている。ストレスフルな職場だ。組織が教育実践上の問題を吸収できないままに時間が過ぎて行った。

職場の荒れから来るストレス状態を家人は心配であったろう。家人のアドバイスがあったのかもしれない。

退職の弁で彼女は、「美術の勉強をしたいので退職します」と教職員に挨拶をした。その言葉をその職場の人びとはどう聴いたか?