2011年3月27日日曜日

ブラック企業と娘

ボランティアを退職前から続けている。そこで就職した学生の話を紹介する。
就職したのは、チェーン店を日本全国に展開する企業。「そこはブラック企業なんですよ。他にも新聞の広告でよく目にする◯◯商会もそうなんですよ」と、その学生は言う。受動的なひどい働き方をされないように祈るばかりだ。


「ブラック企業」とはなにか。関西大学の森岡孝二教授の著作から引用する。
◯社員規模に比して採用人数が異常に多く、離職率が目立って高い企業。
◯露骨な性差別があり、女性社員の平均勤続年数がかなり短い企業。
◯基本給+残業代を「初任給」とし、長時間残業を給与体系に組み込んでいる企業。
◯過労死、サービス残業、セクハラ、パワハラなどが問題になった企業。
◯「△年後には独立可能」「入社即店長」「△年後には年収△百万円」などの「夢」をやたらと売り物にする企業。
◯社長がワンマンないしカリスマで、やたらと従業員のやる気を鼓舞する企業。
◯労働条件があまりに劣悪で、ネット上でしばしばたたかれている企業。
以上の「指標」を挙げている。「就活とブラック企業ー現代の若者の働き方事情」(森岡孝二編 岩波書店 2011年)

先ほどの学生の話を続けよう。
☆社長のブログに必ずアクセスしなければならない。毎日である。接続料として2000円を徴収される。たわいない内容のブログを読まされると嘆いていた。
★盲導犬に募金をする。強制ではないと断るが、半強制的に2000円が徴収される。給与から引かれる。


私事になるが、娘が13日に結婚した。ハワイで挙式をした。いわゆる国際結婚。ハワイで就活をするという。共稼ぎをする。幸多かれと願っている。
彼女は語学留学をして、大学に5年間在籍した。就活をして、内定を何社からもらった。保険会社と情報企業の2社に絞った。そして、ある情報企業に入社した。六本木ヒルズにある本社に配属された。営業所に配属になる。1年間彼女なりに辛抱したが、退職した。理由は長時間残業、パワハラ、セクハラ、飛び込み営業。
私は、彼女の就活中から危惧していた。なぜか。その企業は大阪発祥の企業。立志伝中の創業者が「大阪◯◯社」を立ち上げ、乱暴な営業政策で業界に位置を占めた。そして、2代目社長がスマートに東京へ進出した。ヒルズ族だ。華やかなビルの外見とは裏腹に、社員を劣悪な労働条件に置いているのではないかと。会社のDNAが社員に受動的な働き方を強いていると直感したからだ。会社四季報を読んだりした。直感が当たった。そこはブラック企業だった。
彼女は大阪の我が家に戻った。向日的な性格の彼女はまた就活を始めた。アルバイトで、旅行会社やソフト制作のベンチャー企業に勤めた。労働の喜び厳しさを楽しんでいるように思われた。今はSkypeでビデオ電話をしている。


4月から若者たちが働き始める。私の職場にも4名の新採用教員が配属される。ブラック企業のような受動的な働き方をされないように望む。教育活動に励んで欲しい。しかし過度の労働負担でココロや身体を壊すことも望まない。彼らの下支えができたらと大阪のオッサンは志を抱いている。

2011年3月25日金曜日

阪神淡路大震災で被災、転校してきた生徒の作文

公休日であったが、年度末の仕事の整理のために出勤した。
今年度末に退職される先生が机の整理中に、かつて教えた生徒の作文を見せてくれた。その作文を読んで、私も体験した大地震の記憶が蘇った。

その作文を書いた生徒は女生徒で、2年生に転入してきた。そして、その同僚は、1月17日が近づくと、教室でこの作文を読んできたと振り返った。
題名は「阪神大震災で学んだ事、感じたこと」。

原文通りに掲載する。


1月17日午前5時46分に、震度7の地震があり、その約20秒の間に、今まで当たり前のように見てきた風景が、信じられない風景に変わってしまった。私は、その本震があった時ベッドに寝ていました。突然、"ゴゴゴゴ"という音とともに下からつき上げる様なゆれがあって、お母さんが大声を出して飛び起き、私と弟の体をかばう様に押さえた次の瞬間べッドごと激しく横にゆさぶられた。その時は、一体何があったのか解からずに、真っ暗な中動く事もできず、ただ怖くて足の震えが止まらなかった。
外が騒がしくなり、「助けて!助けて!」という悲鳴が聞こえた。お母さんが、隣の家がつぶれているから助けに行って来ると言って、マンションから飛び出て行った。私と弟はベッドにじっとしていた。

夜が明けてきて、部屋を見るとテレビが、ベッドの上に落ちていた。ふすまが外れていた。弟がペンライトをどこからか出して来て、明りをつけてみると、本棚や食器棚が倒れ、食器は殆ど割れ、台所用品も扉から出て、足のふみ場もないほどになっていた。それから外でサイレンが聞こえだして、やっと外を見ると、木造の家がぺしゃんこになっていたのにすごく驚いた。ガスの臭いもしていた。窓から見える景色は、電車がこけていたり、高速道路の高脚がぐにゃりと曲がっていた。近所は瓦が落ちていて、屋根がぼこぼこへこんでいて、道路は木やブロックばかりだった。通っていた学校にも二千人の被災者でいっぱいになった。家から長田の火災の煙が空一杯に広がっているのが見えた。空にはヘリコプターが何機も飛んでいた。夜はパンとお菓子を食べてろうそくの灯りですごした。

その次の日の夜8時から車で大正区に着いたのが、朝の6時で10時間以上かかった。車の外は、今にもくずれて来そうな建物ばかりで余震が来ると思ったら、ものすごく怖かった。安全な場所がどこにも無かった。

大正区に着いた時町に電気がついていて、バスや電車が走っていて、普通であまりの差に驚いた。おじさんの家に着いて、初めてテレビ報道を見た。しばらくして、やっと東灘のいとこから連絡があり、そのおじさんが亡くなった。弟と毎日遊んでいた友達が、2人も亡くなった。どうしてこんなひどい事になったんだろうと思ってしかたがなかった。

今でも信じられないけど、やっぱり現実で、水もガスもまだ出ない。神戸に帰れば、大阪では考えられない様な不便な生活が始まる。楽しみにしていた部活での三年生を送る会、卒業式の演奏も無くなってしまったし、それ以後の神戸祭り、コンクール等の行事もまともにやれそうにない。だけど、帰りたい。帰ってまた、あの学校で勉強したりいろんな事をしたい。バラバラになってしまった友達とも、早く会いたい。家族と友達と町の人達と一緒に、負けずに元気にがんばって生きたい。いくんだ。



改行だけをした。句読点の打ち方などの誤りも正さずに掲載した。
新聞やインターネットテレビを見て、ラジオを聴いて、東日本大震災で被災された方々に何もできない私自身に怒りを感じている。また、歯がゆい思いをしている。

鴨長明の「方丈記」の世界がグッと身近に迫ってきた。
いまはただ、「無常」を共有したいと思う。情けなく、不甲斐ない自らを責めている。

2011年3月19日土曜日

戸塚宏を笑えない

戸塚ヨットスクール事件を覚えている方は少なくなっただろう。
30年まえの事件だから仕方がないか。

1980年代、非行や登校拒否が社会問題になっていた。今も
そうだが。戸塚ヨットスクール(戸塚宏校長)が非行に走った
子どもや登校拒否生を引き受けて、激しい訓練や体罰で立ち直
らせた実践が注目された。わが子の教育に悩む保護者に一縷の
望みになっていた。
訓練生の死亡や行方不明事件をきっかけにマスコミから叩かれ、
世論の攻撃に反発する姿は「悪役」そのものであった。裁判闘
争に敗れ、彼は獄に下り、2006年に刑期を終えた。

世間によって彼は抹殺されたと思っていた。しかし、彼は校長と
して存在し、主張も変わっていなかった。体罰が人間を進歩させ
ると断言する。恥が子どもを進歩させる。独特の「教育」観を展開
する。論理が飛んだり、跳ねたりする。その論理を補強するの
が「現場」にいることだ。そして、日本の教育の破たんの責任を
日教組・文科省・親のしつけに押し付ける。

その顔は戸塚宏校長だとすぐにわかる。しかし、彼の表情には
以前と違うものが内在しているように感じる。マスコミ批判は
同じだが、こんな教育にしたものの責任を追及してほしいと、
教育から見放された者に代わって、現場で孤軍奮闘するドンキ
ホーテの呻きのようにうつる。

十三のマニアックな映画館(ほめ言葉である)第七藝術劇場
今日から封切の「平成ジレンマ」で、私は、時代と戦い悩みつ
づける戸塚宏に再会した。

映画の戸塚宏は寡黙であり、監督は彼にあまり喋らせていない。
東海テレビ制作のドキュメンタリー映画。ナレーター(中村獅童)
は誰が教育をどこに持って行こうとするのかと静かに言う。

今まで私は戸塚を全否定してきた。かれの体罰肯定を始めとす
る教育を否定はできない。教育を刷新するには、ヒトとモノが
少ない。引きこもり、ニートの問題に立ち向かう戸塚の表情に
は、教育者の悩みが浮かんでいた。

世間から見放された青年や子どもに寄り添う姿に、教育者に近
くなったかと感じる。しかし、彼が参加したティーチインのDVDを
見ると、日教組が悪い(日教組の影響力は弱くなった)とか儒教
で教育しろとか言動は聴衆に失笑を買っていた。独断的発言。
マスコミ批判の強さ。責任の欠如。世間へのふてぶてしい態度
は消えているが、論理は飛躍しており、恣意的な論理の展開が
ある。
そういう点を含めて、彼は批判される存在だけれど、私には彼を
一笑にふすことをためらう。

映画は、彼の現在を客観的に映すだけである。また、映画では
戸塚の発言は少ない。戸塚をどう解釈するかは各自に委ねられ
ている。

2011年3月16日水曜日

教育労働者と原発事故

テレビは見ていない。

欲しい情報を正確に迅速に提供していないのではないか
という疑問がずっとしている。

たくさんの情報が流されている。それに流されてはなら
ない。選択するにはアンテナの感度が研ぎ澄まされて
いなければならない。

放射線医学総合研究所のサイトを見て、基礎知識を
身につけることが基本と考えた。かつてのABCCでは
あるが。広島の被爆者を治療せず、実験材料として
扱った所ではあるが。

意外に充実していたのが、ストップ浜岡原発のサイト

子どもたちに安全で豊かな日本とその明るい将来を
保障するためにも、私たち教育労働者は、自ら考え、
自らの意見を持たなければならない。

東日本関東大震災で奮闘する教職員

Don’t give up!
We don’t give up.

東日本関東大震災で被災された方々ならびに東京電力福島原発の原発事故
で不安を抱いている皆さんにお見舞を申し上げます。また、亡くなられた
方々のご冥福を祈ります。

近畿地方に住む私たちも、若狭湾の原発銀座にいつも不安を抱いています。
私にできることは何か。微力ですが、私にできることを最大限します。

地震発生・津波襲来時は学校現場では課業中ではなかったかなと思います。
学校は避難所で生徒も在校されていたと推測されます。恐ろしかったでしょう。

阪神淡路大震災でも、学校の教職員が不眠不休の働きをしました。
生徒の安全・健康を守りつつ、被災者のお世話をしていました。
被災者から感謝をされました。

マスコミ報道では教職員の活動を見聞することは少ない。
青森・岩手・宮城福島・茨城・千葉のなかまたちはギブアップしていないだろう。

しかし、個々人の努力にも限界がある。国はリーダーシップを発揮して、支援物資
を被災地に、支援ルートを確立して、優先的に回してほしい。
この原発事故に関して、国・東京電力は正確で迅速な情報を、不安を抱く方たちに
丁寧に提供してほしい。
また、放射能汚染に対するデータの開示を速やかにしてほしい。

もう一度繰り返します。正確な情報を早く届けてほしい。情報を隠したり、事故を
小さく見せたりしないでいただきたい。

大津波モクレンつぼみ硬くする

2011年3月11日午後2時46分、東日本関東大震災がおきた。

その日から16日までハワイへ行くことになっていた。娘の結婚式
列席のためだ。21時25分発のJAL機に乗ってホノルルに着く予
定だった。関空の飛行機は運航していた。

自宅を出るまでテレビを見つめていた。津波の凄さ。地震の怖さ。
そして、日本で一番古い原発―福島第1原発の1号機の危険度。
そういう日本のシステムが崩れようとする姿をまともに見るのに堪え
られなかった。

機上の人に妻と私はなった。しかし、日付変更線の手前で機長の
アナウンスが響いた。「当機はミッドウェー代替施設で給油ができ
ないため、またホノルル空港に津波来襲する予定にありますので、
羽田空港に引き返すことを決断しました。悪しからずご了ください。
羽田で給油をしたのち、関空にもどり入国をしていただきます。」
乗客は唖然となっただろう。

その日は自宅に帰る。テレビは次々津波の被害を報道する。
当然だが、福島第1原発の動きはあまり報道量が少ない。

結婚式に列席しなければならない。チケットを求めたが、どの飛行
機も満席でなかなか取れない。デルタ航空にエコノミー席1席だけ
あった。19万円。すぐに予約。しかし、もう1席がいる。あった。
ビジネスクラス1席あった。40万円。えーっつ!!そんなお金は
出す資力が私にはない。結局、妻だけが出発した。

3月12日午後9時台のデルタ航空で発ったと妻からメール。

自宅にインターネット放送を見る。地上波テレビでは原発事故
の詳細は分からないから、スイッチオフ。

東京在住の長男とその彼女にメールと電話で連絡をとる。連絡つかず。
何度かメールして、やっと長男からメールあり。でも、彼女(みどりちゃん)
と連絡つかず。彼も心配している。

心配。先週に東京に行き、4人で散策をして、楽しい時間を過ごしたばかり。
12日は長男は職場である特養ホームに泊まった。電車が運休していた。
みどりちゃんは自宅から2駅目なので、夜遅く帰ったと。彼女は保育士だ
から、子どもの親が引き取りにくるまで待機しなくてはならない。

長男と彼女は結婚予定。今年中に結婚式をすることはできるか。震災の
後なので、状況が変わった。

福島原発の事故がしきりに気になる。関東地方の人々も放射能汚染の
最悪事態を考えておかなくてはならない。
フランス政府は同国人の避難のため、帰国のためにエールフランス機を
用意したと報道。また、滞在する同国人用にヨウ素剤を用意したとも。

日本政府は日本に住む人に「ヨウ素剤」を用意しているはずだ。ただそれ
をどのようにして配布することができるかを手立てを打っているか心配
する。

16日、近くの公園のモクレンのつぼみが膨らむ。中には白い花を咲かせ
ているのもある。春が来た。しかし、今年の春は気が重く、日本には生みの
苦しみがある。新エネルギーは原子力ではないことが判明した。
太陽力発電、風力発電、地熱発電などのニュー・エネルギーで立国を考え
なければならない。また、今までの政治は疲労している。新しい希望をもった
政治―社会が構築されなければならない。

魯迅が志向した新しい生活を私たちは持てるだろうか。
日本人が木偶のぼうで居つづけるか。それを抜け出ることができるか。
日本人個々人だけでなく、日本の民主主義の真価が問われている。